better sleep at all…I remembered a piece of the dream of my childhood.
ショーン・タン( Shaun Tan)作品の不思議さ=魅力は、過去に起きた未来の息子の哀しさを現在の親である私に感じさせるということだ。
言い換えると、未来に起きるであろう私の息子の感じる悲哀が、実はその時には既に過去である現在、そして現在よりももっと過去において息子の父親である私が感じたことを息子が追体験し、おそらくはそれが追体験であるという自覚を息子自身が持つだろう、と現在の私に予感させるいうこと。
この奇妙な未来の懐かしさは、実に興味深い。
某全国紙にあった小川洋子氏の文章で興味を持ってショーン・タンの『ARRIVAL』と『遠い町から来た話』を買ったんだけど( 『ARRIVAL』はAmazonのリコメンドで買って、小川氏の文章で買おうと思った『遠い町…』より先に到着した)、小川洋子氏に感謝せねばならない。良い作家に出会えた。
『ARRIVAL』に登場する国は、まるでオネアミスのようで懐かしい違和感を感じるし、『遠い町…』の「遠くに降る雨」はまるっきり twitterのことだし、「エリック」は性格なんかは正反対だけど、私の息子を思わせる。
そうなんだ。通奏低音は、「訪れるということは、きっとそういうことなんだね」ということ。親子ふたりして道路の真ん中に立ち尽くして見つめる青空を、スイミングスクールからの雨上がりの帰り道に見つける私の息子は、いま、まさに、ここに訪れているんだな、と思い知らせてくれる作品だし作家だ。
たぶん、Facebookはユーザにコンテクストの能力を求めているんだと思う。コンテクストを自ら作り出せないと、ユーザは放り出されたまま放置されてしまう。
ザッカーバーグ流にはサイトの要求するものがあるんだろうけど、それがメタ過ぎて私にはピンとこない。もしくは、ザッカーバーグの波長と私の波長が合わないので、レベルは同じでも位相が違っているのでピンとこないのだろう。良いとか悪いとかじゃなくて。
敢えて、コンテキストを誘発しないデザインなんだ。だから、放り出されて放置されている感覚を抱いてしまう。ユーザにコンテキスト能力のようなものがないと、放り出されたままで途方に暮れてしまうのだ。何でも出来るけど、何もしてくれない、というところ。
神様と同じだな。
コンテキストの能力には、意志と技術が必要で、私の場合は意志に欠けるんだろうと思う。現実世界だけでも手一杯なのに、これ以上、人間関係を複雑にしても追いつけない。石鹸はひとつでいいと思っている。
「現状を前提として震災前の水準に戻るのに必要な年数を試算したところ、約1.1メートル沈下した宮城県牡鹿地方では約9900億年、約31センチ沈下した福島県相馬市では約170万年となった。同院は「被災地で大きく地盤沈下した地域の防潮堤の再整備は、現状を前提にすべきだ」と話した。【神保圭作】」( http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111118-00000105-mai-soci )
地球が46億年、宇宙が137億年の年齢だから、9900億年というのは永遠ともいえる。
この数字、ほんとに正しいのだろうか。
○○○から見たペルセウス座流星群!——なんて、ああ、きっと綺麗なんだろうな、とは思うんだけど、でも、じゃぁそれを敢えて見てみたいか、ストリーミングとかYouTubeとかで見たいか、と訊かれれば、別にいっか、というのが正直なところ。まさにその○○○で現場に立ち会っていたら、それはそれで素敵なんだろうけど。でも、その○○○には居なかったわけで、それはそれで肉薄する事実なんだ。
むしろ、記録されたもので追体験するのなら、文字とか手書きのデッサンやエッチングとか、そういう古色蒼然とした、もしかしたら19世紀メディアのようなものの方が楽しめるんじゃないだろうか。
自分がリアルタイムに生身で体験していないことは、記録されたもので擬似的にリアルタイムさを体験しても仕方ないよな〜、と、こんな具合になんだかサッパリしちゃっているから、いくらITだネットだと騒がしい業界に長く居ても、いつまで経っても金持ちにならないんだろう。
ページ 1 の 7